《ユコびんでもわかるインターネットと通信の歴史①》電話とインターネット / ネット以前の通信事情 〜ねこ先生連載
リンあれAuthorのユコびん(@yucovin)です。おまたせしましました、ねこ先生連載いよいよスタートです。 (σ´∪`σ)
最初は「軽く〜」とか言ってました。
え?Σ(゚Д゚;)
ってか、ちょっ! なんスか「ユコびんでもわかる〜」ってサブタイトル((((;゚Д゚))))
なんスかなんスか、何勝手につくってるスか!
リンあれ新シリーズ「ユコわか」とか作んなくてもいいーですからっ!
はぁ、はぁ、_:(´ཀ`」 ∠):_
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失礼しました〜。新シリーズ「ユコわか」連載だよぉw ねこ先生が超優しく易しくネットの歴史を教えてくれるよぉw ₀: *゚✲ฺ٩(ˊᗜˋ*)و ✲゚ฺ*:₀ ←開き直ったらしい
みなさま、どうぞお読みください。
《ユコびんでもわかるインターネットと通信の歴史》電話とインターネット(1)序文
アップルファンが多いであろうりんあれの読者さんに興味を持っていただけるかどうかは若干疑問なのですが、思うところがあって、日本の通信事情とその裏話を書いてみようと思います。私と同じ50代以上の方には「そんなの知ってるよ」ということがほとんどだと思いますが、ゆこびんに昔話を話すイメージで書こうかな、という気分です。ただし主要な知識は、私がIT関係の仕事をしていた頃までのものが中心ですので、最新の技術論などはできるだけ避けようと思っています。何かを調べて書く時間はなく覚えている範囲ですので、年代などに誤りがあるかもしれませんが、ご容赦ください。数回に分けて書いてみますが、どこまで書こうかまだ考え中で、完結するまでには少し時間がかかるかもしれません。
(1)インターネット以前の通信事情をごく簡単に
1)携帯電話が普及するまでの電話事情
私が携帯電話を使い始めたのは、1987年頃のことです。まだDocomoが分割される前の時代です。当時は、今のように「携帯電話を買って使う」のではなく、高額の保証料を納めてレンタルする形式でした。大きさはそれほどではなく、ポシェットに入るくらいでしたが、重さは替えのバッテリーを付けると1キロちかくになる代物でした。私が最初に「買った」携帯電話はNEC製で、長い間NECを乗り換えてきました。携帯電話が現在のように自由に買えるようになったのは1994年(注)のことで、契約数の爆発的な増加はそれからになります。
(注)この年号を覚えているのには訳があります。後から書きますが、1995年が携帯電話に取ってのターニングポイントでした。阪神大震災の年です。電気事業が原則自由化(といっても、問題多々あり、でしたが)されたのが1985年で、それからちょうど10年で携帯電話も転換期を迎えたのです。
NEC製にしたのは、唯一の折りたたみ式だったからです。折りたたみ式なら小さくて済むだろう、と思ったので選択したのですが、替えのバッテリーの大きさ(容量の大きいものと小さなものがありました。当然、大きなものを買いました)が携帯電話本体よりもかなり大きく(しかも重い)
当時は、電話料金がとんでもなく高く、携帯電話を持とうと思う人は稀でした。仕事柄、1日中飛び回っていたので、クライアントから「持ってください」とお願いされて持つことにしたのですが、それでも実際の利用法はポケベルに近いものでした。こちらからかけるのは、ほとんどが公衆電話。クライアントからの電話は、ひとことだけで、すぐに公衆電話を探してかけ直す、という使い方をしていました。それでも、予備のバッテリーを持ち歩くことが必須で、電話料金も月に3、4万していたように記憶しています。
それでも、携帯電話はかなり便利なものでした。ポケベルが普及し始めたのは1970年代の終わり頃だったと思いますが、ポケベルは「電話をかけると鳴る」というだけの機能しかなく、「誰からのメッセージか」ということはわかりませんでした。仕事柄、どのクライアントから連絡があるかわからないので、ポケベルでは代用できませんでした。ポケベルの機能がそのままであれば、多少高くても携帯電話を持ちたい人はもっと多かったのだと思いますが、携帯電話の一般開放とほぼ同時に、ポケベルに数字を送ることができる機能が付加され、ポケベルが普及の速度を速めました。1990年代には、ポケベルを使って数字の語呂合わせでメッセージを送ることが流行り、女子高生の必須アイテムになったことは、覚えてらっしゃる方も多いでしょう。
さて、固定電話はどうだったでしょうか。以前の投稿でも少し触れましたが、1985年の「通信自由化」によるNTT発足に伴い、それまで80000円だった加入権(最初は「電話債券」、その後「工事負担金」、さらに「電話加入権」と改称された)が72000円に引き下げられました。引き下げられた表向きの理由は、「電話機の自由化(それまでは電話機は電電公社から借りるものであって、その権利金が8000円とされた)によって、その借り賃分を引き下げた」ということでしたが、実際には、電話の新規加入にかかる費用がそれほどかからなくなったこと(必要以上の金額を取っていた、ということ)と、携帯電話の普及を見越して、固定電話にできるだけ顧客を留めようとする意図があったのは明らかです。
加入権は、さらに後年、40000円弱に引き下げられました。これがいかに「詐欺まがい」だったかは、直後に多くの企業、個人が「加入料の引き下げによって資産価値が下落した」としてNTTを相手に訴訟を起こしたことでもわかります(訴訟はすべてNTT側の勝ちでしたが)。私も必要があって95年に3回線「買った」のですが、今はひとつが遊んでいます。加入権(電話債券)は、NTTが買い取ってくれる性格のものではありませんでしたが、市場ではそれなりの金額で売ることができました。ところが、40000円に下げたころには、マーケットでの値段はそれ以下で、実質的に資産のロスが発生していたことも事実です。
私は、郵政省(総務省)やNTTは、NTT発足時から加入権を「ご破算」にすることは想定済みだったと思っています。そもそも電話債券が必要だったのは、まだ電話回線が普及していない時代には、1本の回線を引くためにもかなりの工事費がかかったのは確かです。しかし、特に市街地では、70年代後半からは電話回線の新設にかかる費用は激減した(電話線が十分に張り巡らされ、交換機の容量も大きくなったから)にもかかわらず、同じように加入権としてお金を集めていたのには、はっきりした理由があったからです(それは後述します)。
このように、1980年代後半から1990年代にかけて、電話の事情は大きく変化しました。
2)携帯電話の普及
(携帯電話のキャリアの歴史は書くつもりはありませんので、話のつながりとして知りたい方はネットで調べてください)
携帯電話(PHSを含む)が爆発的に普及したのは、阪神大震災以降です。
私は神戸に縁があり、1月末から5月の連休まで、仕事を休み休み、ボランティアとして神戸に通っていました。1月末に現地に入ったときには、まだ避難所にも十分に食料が回っていない時期でした。携帯電話を持っている人も少なく、各避難所に設置された仮設の公衆電話には、長い行列ができている状態でした。地元の方の話を聞くと、「最初は携帯なんか使い物にならなかった。アマチュア無線が大活躍だった」とのことです。確かに、基地局が少ない上に大きなダメージを受けたのですから、震災直後は使い物にならなかったのもわかります。しかし、2月に入ると、状況は一変します。
避難所のボランティアスタッフや避難所同士の連絡に携帯電話が欠かせないものになり、次第に携帯電話を持つ人が増えました。それに加えて、各キャリアは、被災地で競って携帯(特にPHS)を「配り」始めました。前年に買い取り制になった効果が早速現れたわけです。被災者の多くが、こうした「無料で配られた端末」を利用するようになったのです。私の周辺の人たちは、比較的こうした「先端技術」を受け入れるのが早い人が多いのですが、それでも震災前に携帯電話を持っている友人、知人はわずかなものでした。特に関西圏では無料の端末がほぼ無制限に配られていたので、契約数の伸びも著しかったのだろうと思います。1994年には500万に満たなかった契約数が、1995年には1000万を超え、その後は毎年1000万ずつ増える、という伸び方になりました。
この手の情報機器は、増え始めると加速度的に増える性質を持っています。95年には、それまで伸び続けていたポケベルの契約数の伸びが止まり、契約数ベースで携帯電話とポケベルが逆転しました。その後の推移は、みなさんもよくご存知だと思います。
初期の携帯電話は、今から考えるとまったく無愛想なものでした。最初は数字しか表示されないもので、液晶のきれいな画面になった時には驚いたものです。
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次回は、インターネットが一般解放される直前に流行った、パソコン通信について、内輪話を含めて書いてみようと思います。
前回のねこ先生の寄稿エントリ
・docomoのiPhoneとアップルの「進化」 (寄稿:ねこ先生)【リンあれ三周年企画】